泉太郎«Pan» Palais de Tokyo パレドトーキョー

日本人が«Pan»から連想するものはなんだろうか?
食べ物のパン?ピストルの発砲音は、フランスでも日本と同じオノマトペの«Pan»。
ラテン語の接頭辞paには、”全”という意味がある。パンデミック、パノラマ、パナソニック、、
ギリシア神話に出てくる神panは自然の守り神である。
Panというたった3つのアルファベットの羅列にさえ、様々な意味が含まれていることが分かる。まるで鑑賞者に解釈の選択を委ねているようでもある。
同じように、泉太郎の作品は、私たちに自身の意図を押し付けるように主張することはあまりしない。
道端に捨てられていたら見向きもしないようなものに、恐ろしいほどの時間と手間暇をかけて、私たちのトリガーにひっかかる小さな工夫をほどこす。それに気付くか、通りすぎてしまうかは鑑賞者次第。
展示室で私たちを待ち構えているTo forget the day that I forgot to wear sunscreen(日焼け止めを塗り忘れた日を忘れた)は、そういうちょっとした小さな好奇心をそそる作品。
一枚の壁に見えるレンガは、実は一つのレンガを5分ずつ延々と撮影したものの集まり。
20cm片程度のレンガのそれぞれには、すべて違う時間が流れている。泉は、膨大な時間の集積を、レンガの壁として物質化した。
©Mari Uruta
今回の展覧会の目玉とも言える、Tickled in a dream… maybe?(夢から醒めた夢)シリーズ。
これらの廃材と家具を組み合わせた彫刻は、椅子やベットとしてその中に身体を収めることが出来る。
©Mari Uruta

そのポジションに身体をおくと、自動的にスポーツ選手のポージングになるのだが、それは必ずしも居心地の良い姿勢ではない。そもそも、例え瞬間的でも身体能力に特化したスポーツ選手の模倣をするということが滑稽なのだ。彼らは、世界の少年少女の憧れであり、セレブであり、多くの場合-とりわけフットボールの世界では-非アジア人である。身体的な居心地の悪さは、フェアプレイを歌うこの世界のちぐはぐさも想起させる。

政治的なアーギュメントはいくらでも出てくるが、彫刻作品としての精巧さも見逃してはならない。職人たちが数ヶ月に渡って制作した、美しく居心地の悪い家具たち。
©Mari Uruta
Palais de Tokyoがほこるファサードの風景を一変させた空間を見て欲しい。床が底上げされており、いつもの階段も、Tino Sehgalがつくりあげていた真っ白な空間も存在しない。
©Mari Uruta
©Mari Uruta
その拡がった空間に、雑多と言ってしまってもいいほどの量のオブジェが展示されている。巨大なスクリーンとプロジェクションがプラットフォームの両端に。それから、ブラウン管テレビ、植物、イミテーションの宝石、靴、鶏カゴ、、アーティストの頭の中を覗き見ているようだ。
スクリーンの人々は、 展覧会の入り口に設置されていた狼の鳴き真似をする少年に対応して答えを返す。ここにも、個人と集団の社会のルールが存在する。
白い部屋に入って初めて、たよりない一本の線がアーティストによって描かれたものであることがわかる。この空間だけは過剰な密度から解放されている。一本の線は、途切れることなく展示室全体に続き、すべての作品を侵食する。

泉の作品は、ひとつひとつを難しい顔をして鑑賞するには不向きだ。見えるもの、聞こえる音をただ受け止めてみる。私たちをひっかける違和感が見つかるだろう。ただそれを滑稽だとおもしろがれば良い。あなたが感じた違和感は-対象物それ自体ではなく、その周りにあなた自身が巻き付けている認識、概念、常識なのだ。